副院長のヒストリー ~保育園時代編~
こんにちは。副院長の伊藤です。
当院のホームページ上で何度かブログ記事を更新していましたが、今一度更新するようにと言う話になりまして、何を書こうか非常に悩んでおります。
なぜそれほど悩んでしまったのかと言うと、私自身は人に対して自分の考えや思いなどを伝えるのは好きな方ではなく、ましてやSNS上に載せる事なんて……。といった思いを持った人間ですが、亀山院長からのプレッシャーに負けて書く事になりました。
先述した通り、私自身が世間に対して何かを伝えたいという思いが特になく、かといって何も書かない訳にはいかないので、今回は私がARTSsに入るまでの半生のような物をブログ上にあげさせて頂きます。
私は東京の足立区で産まれて物心が着く前にすぐに平塚へ引越しをしました。その後の私の人生は平塚を中心に進んでいきました。平塚は周辺に海も山もどちらもあるという非常に自然が豊かな所でして、私の一家は伊勢原寄りのどちらかと言うと山が近くに有る所へと住む事になりました。私の両親はどちらも教員として働いており、平塚に住みながらも東京の学校に務めていた為、朝食を食べ終わる頃には父も母も居ないというのが当たり前の日常でした。
その生活は私が保育園へ通う年齢になっても変わらずに続いていました。私が保育園に通うようになった時には、朝食を食べたら親戚の叔母の家に一度預けられて、そこから叔母のトラックで保育園に通うという形で保育園に行っていました。毎日のように保育園に送ってくれる叔母だったのですが、幼い頃の私には両親でも無い人のトラックに乗せられて登園していたので、叔母にお世話になりつつも内心では「この人は誰なんだろう」という気持ちを持ちながら、トラックに揺られて登園していた事を覚えています。
保育園は田んぼの真ん中のような所にありましたので、自然の中に預けられるように日々を過ごしていきました。保育園では毎朝決まって、年少組や年長組といった感じにクラス別に分かれて園の周りをかけっこして遊んだり、夏になって日差しが強くなると亀や魚を飼っていた池をプールのようにして泳いでいたりもしました。保育園では本当に自由に楽しく友達と遊んでいて、保育園に通うのは自由な遊び場に行くような気持ちで通っていました。
ただ、そんな楽しい保育園でも子供心に憂鬱になるような時間がやってきます。それは保育園が終わって両親が迎えに来る時間です。夕方の時間になると続々と友達の両親が迎えにやってきます。まだ両親が迎えに来ない友達と遊んでいても、時間が経つにつれて一人、また一人とどんどん家に帰っていき、最後に両親が迎えに来るのは必ずと言っても私でした。
大人になった今でこそ、両親が毎朝ご飯を作り東京まで出勤をして、家族を養ってくれている事はどれだけ大変な事かは分かりますが、幼い時の私には「いつも自分だけが取り残されてしまう」といった気持ちが心の中に有りました。繰り返しになってしまうかもしれませんが、大人になった今でも思い出せるくらいなので、当時の私にとっては子供心に来るものが有りました。
非常に簡潔になりましたが、私が生まれてから幼少期をどのように過ごしてきたかというお話になります。次回は小学校時代について書いていこうと思います。
それでは、またお会いしましょう。