副院長のヒストリー ~社会人編① 入社編~

こんにちは、副院長の伊藤です。

 前回は高校時代について書いていきました。遅刻はするけれど休みはしないというちょっと変わった学生生活も終わり、新たに社会人として働いていく事になります。今回はそこでどのような経験をしていったのかを書いていこうと思います。

 卒業間近に進路を進学から就職に替えて、車体製造をやっている会社に就職する事になります。町工場のような職場で家からバイクで30分くらいに通える距離でした。入社したら、すぐに職業訓練校で仕事上に必要な講習を2週間受け、その後に配属先が決まるという流れでした。

 訓練校で研修を受けている際に、人づてに溶接部門は厳しい職場と聞かされていました。その言葉を聞いて、厳しい職場で働くのは嫌だなと内心では思っていたのですが、その気持ちとは裏腹に厳しいと噂されている溶接部門に配属される事になります。

 実際に配属されてみると異文化というか異世界のような職場でした。周りを見ると作業している人の殆どは外国の期間工の人で、日本人は殆どいない環境でした。配属前には、作業のやり方は日本人の社員からを教えて貰うという話でしたが、実際には外国の期間工に聞いてくれと言われてかなり困惑しました。何故なら、期間工の殆どの人が片言の日本語しか喋れないのでコミュニケーションを取るのも一苦労だったからです。

 厳しい職場と聞いてはいましたが、作業だけでなく言語の面でも厳しい職場とは思いもしませんでした。作業に従事している方の殆どが日系ブラジル人やペルー人、ボリビア人といった感じで日本人がほぼ居ない環境に突然放り出されたので、配属されて2日目くらいで辞めたいって思いました。

 ただ、それでもその会社には6年近く働く事になりました。2日目で辞めたいと思っていた私が6年も働く事が出来たのは、自分の中で「辞めたら負け」といった感情が有ったからかもしれません。

 当時の課長や上の世代の人たちは金の卵世代と言われる、高度経済成長期における集団就職をしていた世代でした。その人達からは「若い奴は根性が無いからすぐ辞める」と、しきりに言われてきました。面と向かって根性が無くてすぐ辞めると言われ続けてきた事で、私の中で反骨精神のような物が芽生えてきます。その反骨精神が良くも悪くも私の中で「辞めたら負け」という感情に変わり、仕事辞めない理由の一つになったのかもしれません。

 そんな職場でしたが、慣れていくと期間工の仲間から片言のスペイン語を教えて貰ったり、ボディランゲージで意思の疎通をしたりして仕事を覚えていきました。ある程度コミュニケーションが出来るようになっていくと、仕事について言い争いになる事も有りました。当時の私は感情がすぐ表に出てしまう事が有って、相手もそれに反応して言い争いになる事もありました。しかしながら、ラテン系のノリと言うのか分かりませんが、翌日には何も無かったかのように普通に話しかけてきたので驚きました。

 私が驚いていると「昨日の事を気にしているのか、昨日の事は昨日の事だろ」と言われて日本人との違いを感じさせられました。どうしても日本人は衝突したらその出来事を後に引きずりがちですが、当時一緒に仕事をしていたメンバーはそんな事が無く、感情が出やすかった私にはある意味ではやりやすいと感じた事すらあります。

 そのような事が有った職場ですが、とあるベテランの方が良く言っていた言葉が私の中に印象深く残っています。その人は職場の中でも親方のような人で、その人がよく私に聞かせてくれた言葉は山本五十六の名言でもある「やってみせ、言って聞かせて、やらせてみて」に通じる様な言葉でした。

 外国人の期間工の中にもリーダー格の人が居て、休憩中に人の仕事についてよく文句を言っていました。その人に向かって親方は「そいつが出来ないのは誰のせいだ」とよく問いかけていました。続けて「リーダーのお前が仕事を教えているのにそいつが出来ないという事は、出来ない奴が悪いのか、それとも教えているお前が悪いのか」といった具合に話をして、決まって最後にこう言いました。「いいか。言うだろ、やるだろ、やらせてみるだろ、それでそいつが出来なかったらもう一度やるんだ。最後は分かるか、出来るまでそれをやるんだ」といった言葉を私にもリーダーにも繰り返し聞かせてくれました。

 当時の私は新人の教育を任されることが多く、親方の言葉を何度も聞かされていたので、教育に関する泣き言は絶対に言わないようにと意識するようになりました。ただ、誰かが親方にそれでもダメだったらどうするのかと聞いたら「その時はアレだ。言って分からねぇなら、殴ってでも分からせろ」と笑いながら言っていたのも覚えています。

 それ以外にも親方から作業指示書を作る様に指示された事が有りました。作業にも慣れてきた私には、今更作る必要性が感じられずに何故作るのか聞いたら「慣れている奴が出来るのは当たり前なんだよ。それが出来たって別に凄くはねぇよ。慣れていない奴も出来るようにするのが作業指示書だ。大体そんな慣れている奴がベテラン気取っていても良い事なんてねぇよ」と言われました。更に親方は「いいか、どんな馬鹿でも出来るようにするってのが教育って奴だ。出来る奴は勝手に出来るんだから当たり前だ」という話を良くしてくれました。

 親方の「どんな馬鹿でも」という言葉にはかなり考えさせられて、私が誰かに何かを教える際には私の中で出来る限り分かりやすく伝えるように意識をするようにもなりました。

 高校を卒業して全くの異世界に入る事になった新社会人生活でしたが、その中でも自分なりに面白みを見つけて仕事をしていたのは覚えています。親方の言葉は今でも覚えていますし、非常に厳しかったことも覚えています(笑)

次回は何故私がこの職場を辞める事になったのか、という事を書いていこうと思います。

それでは、また次の機会にお会いしましょう。